何故「かつての」かと言えば、Junが晴れてMBAたる大学院卒業証書を手にしたのは、まだコンピューターのマウスすらおよそ無く、ウェブサイトやオンラインショッピング等皆無の時代。
そのころの状況を語るのはもはや考古学者が化石を発掘するかの如くというほどです。しかしMBAの真髄の一つであるケーススタディという形式は、今も昔もおよそ変わっていない伝統の一つでしょう。また数々の教授の名言は未だに源氏物語に同感するかのごとく、普遍的な人間社会の真理を語る事も多々ありました。今回はJunの実際のMBAプログラム経験にまつわるエピソードを中心に綴っていきます。
大学院で過ごした二年のすべてを一つのエピソードで語るのは長くなり過ぎるので、別の機会に付け足しを綴ろうと思います。また当然、同じ時期に同様にMBAを習得した方々とは違う意見もありましょうし、また今現在の学校の状況も大きく変わってきた筈です。その辺りはご了承下さい。
MBAと日本人MBAのミニ歴史
大学院の学位としてMBAというものが確立されたのは20世紀アメリカでのこと。大学という機関はアメリカという国ができる遥か以前イギリスでできたもの。そういった意味ではMBAというのは今や世界中の大学がコピーしてますが、いかにもアメリカらしい学位といえるでしょう。
ハーバード大が先ずやり始めたわけですが、基本は東海岸のアイビーリーグ、そして全国に散らばるいくつかの名門校があります。世界中の大学を含めたMBAランキングは様々なメディアで出版されていますが、やはりアメリカの大学院が数多くトップを占めています。
終身雇用制などという寝ぼけた制度がおよそないアメリカ。キャリアアップは自分の責任という世界。企業に頼らずビジネススクールという機関でそれを企てる、というのは分かり易い社会構造です。逆に取敢えずは未だに大学は遊ぶところ(Junの兄曰く人生での一瞬の昼休み)で仕事のやり方は会社で習うが主体であろう日本社会。日米比べた場合、何故アメリカではMBAプログラムが発達したか納得いく気がします。
1980年代、日本でもちょうどバブル景気の時でしたが、その頃にアメリカ国内でもMBAとやらは一般に知れ渡るようになりました。それには先ずMBAランキングなるものが始まったこと、また映画やドラマでも、いかにものエリートがMBAという設定だったり。
1988公開の大ヒットアクション映画「ダイハード」の話の中で、アメリカで躍進する日本企業ナカトミの社長は、タカギさんでハーバードMBAという設定、風刺だらけの映画でそれは適当に作った経歴では当然なかったでしょう。
またMBAという言葉は確か出ませんでしたが、マイケルダグラスがアカデミー賞をとった映画「ウォール街」(もうそのまんま)。これまた名言だらけかつその彼が演じた大悪人、なんとそれに憧れてビジネススクールに行きウォール街へ、という人達が出てきたとも言われています。
当時のウォール街はジャンクボンドたるものが業界を牛耳り、とんでもないM&Aが盛んであった時でもあります。その後、のちNYCの市長になるジュリアーニ検事が、インサイダー取引などで多くのエグゼクティブ達を逮捕かつ牢獄へ放り込みました。
映画ウォール街より。悪役エグゼクティブゴードンを演じるマイケルダグラス。ちなみにこのサスペンダースタイル、現実のウォール街ではほとんど見かけないものです

時を同じくバブル景気に沸く日本、企業が優秀な従業員をアメリカのビジネススクールに送り込むというのが流行り始めました。成長を続ける日本、そういった学生は歓迎されたでしょうが、どうもあっという間に評判を落とす事になったようです。全員では当然ないでしょうが、折角来たはいいが、日本人同士でしかグループにならず、およそクラスのディスカッションにも貢献しない、といったところです。
悪く言えば派遣の日本人学生は、所詮箔をつけて日本に帰り再び会社人間として頑張る事が目的であり、ビジネススクールは入ったとなれば、別にクラスに何の貢献せずとも痛くも痒くもない。という事だったという予想もできます。
私に推薦状を書いてくれたビジネススクールの教授は、正にそういう指摘をしており、企業とは関係ない個人での留学だ、という事で喜んで入学への推薦状を書いて頂けました。逆の場合は無理だったようです。その教授にしたらそれほど日本の企業派遣学生達は評判が落ちていたわけです。
そして彼曰く、志願者選考の段階でも、既に学校としては企業派遣よりも個人での留学生を好むようになってきたとまで言ってました。しかしながらそれから数十年経た今現在、日本の企業派遣でMBAを習得する方はいるもので全くそれがないという事ではありません。
因みに楽天創始者の三木社長は日本興業銀行(現みずほ銀行)社員でハーバードMBA習得、その後に退社して楽天創業。また英語を社内の公用語にするなど、上記の教授が思うような日本人派遣生、というのとは多分大きく違った例でしょう。いずれにせよかつての日本人MBAは企業派遣がほとんど。しかしバブルが弾ける前後あたりから学校側としても企業派遣でない個人での割合を増やすようにしたのは間違いないです。
入学式
晴れて学校が始まった初日、日本から持ってきたスーツを着たのはあの不合格になったビジネススクールに面接へ行ったきりのNYCに来てから二回目。入学式会場に入るとなんと、スーツを着てきたのはJunも含め明らかに日本人だけ。アメリカ人もさることながら世界中から来ている今入学したてのMBA生徒、何故か日本人だけみなスーツ。驚いたというか拍子抜けというか。
日本だとどこかの体育館にでも入って爺さん達のおよそ面白くないスピーチを聞かされるのですが、アメリカの大学、校長にしろ教授にしろかなり大多数が実に面白く話の出来る人が多いです。評判が悪いと直ぐ引きずり下ろされたりとかがあり、結局生き残れるのは中々の人ばかり、となるわけです。
ここで教授が話された事は、今から思い起こせばやはり実に的を得ているものでした。
「みな学生達はとにかく成績やそのトータル平均を気にし過ぎだ。そんなものは実社会での成功有無に全く関係ない。だからとにかく習う事に集中したまえ。因みにどこかの統計で、ビジネスでの成功と何か相関関連のあるものがないかと調べたら、それはやはり学校の成績ではなかった。はっきりではなくも、少し関連があるといわれているのが身長の高さらしい。」
この身長が高い方がビジネス成功率が高い、という発言、今の世の中では差別扱いで絶対禁止でしょう。しかしあのマウスもネットもなかった時代は、やはり考古学者が調べるレベルという別の時代だったのです。実際今の世の中ではかなり変わってきた印象を受けますが、しかし例えばアメリカ大統領はやはりみな背が高い。
Grokに過去米大統領20人の身長聞いたらやはり背の高い人が多い!

ちなみに身長180cmを超えるJunはアメリカでも結構背の高い部類になるのでこれはいいニュースという事にしておこう!とほくそ笑みました。そしてあっという間にクラス選択、登録、と一学期が始まりました。
1学期開始
必修科目をほとんどの学生がとるわけですが、英語学校時代に取ったファイナンスやマーケティングのクラス等のお陰でそれらをいくつか免除してもらえ、いきなりアドバンスのクラスも取れました。途方に暮れながらがむしゃらに取敢えず勉強していたクラスが実は全く無駄になっていなかったと知り、それはまた随分報われた気がしました。
いきなりケーススタディの山ではなく、大体がレクチャー形式でした。しかし教授が教える一方通行ではない様々なディスカッションの機会、グループでやった宿題のプリゼン、という感じで、そのあたりはやはりらしいやり方でした。
クラス全体でディスカッションをするのが前提の円弧を描いたこの感じがいかにもビジネススクール仕様の教室(グーグルより拝借)。初めて入った時は子供のようにメタクソ感激、嬉しかった

既に学部レベルではあったものの、アメリカ人にまみれていくつかクラスをとった事もあり、すんなり溶け込めた気はしました。しかしこれはビジネススクールに集まる人達の特徴なのか、およそアメリカ人たるもの、日本人にしたらお喋りに見えるところ更に輪をかけてよく喋る。ましてやつい先日、外国からやって来たばかりの英語が母国語ではない方々はもうひたすら聞くに周り、立ち向かって論破するだのもってのほか。外国からいきなりやってきた場合の留学生の最も苦労するところでしょう。
そして授業中に教授の方からいきなり生徒を名指し「これこれさん、あなたならここでどうしますか?」というような事は日常茶飯事。ボケッとやってたら落第確実です。アメリカ人でさえ慣れるのに大変な第一学期、留学生の場合は言葉のハンディが重なり、やはり実にとんでもない事です。授業中の発言の質と量がクラスの評価に2割から4割程の点数とされる事がありがちで、ここはやはり留学生第一学期の成績が冴えない理由の一つでしょう。
ここでまだ最初の学期だったのですが、日本の大学受験時にやってきた量の勉強、それと比べたらかなり楽だ、と取敢えずその時は思いました。それといわゆる理系人間であるJunにしたら、ビジネススクールのクラスはそれこそ科学的な論理で白黒つけられないものが多くあり、そういうところで頭を使う点は新鮮でもありました。
アメリカの大学、大学院は、日本の大学受験の猛烈さと比べたら大したレベルではない、という意見の方々がいるようですが、特にビジネススクールとロースクールにおいてはそれは的外れな評価という事になると思われます。
2学期開始
そろそろ自分の専攻に沿ったクラスもとり始めるのですが、それに伴い深い内容となりまた露骨にケーススタディが増えました。そのケーススタディですが、先ずは話題となる企業のバックグラウンド、またその業界はたまたまドラマのロケとなる街や国、そしてそのあたりの様々な背景、膨大な量の資料を読むわけです。まるでそのケースの現場にずっと居合わせていたかの如くに成りすまして、どうすべきかを実際の授業であれこれ討論するわけです。予習として資料を読んでバックグラウンドを頭に詰め込みそしてどういうところがポイントかをあらかじめしっかり纏めておく必要があります。物によっては例えばどのようにリストラしてどうプロダクトマネジメントをしてキャッシュフローを変えられるかのプラン、と言い出したらきりがない、制限のないどのような論議でもできる正解のないもの。
ケースブックのいくつか。クラスが始まる前に読んでおかなければならない一冊の本が渡されたこともありました

実際の授業では当然教授が指揮を執るのですが、クラスの進行は言ってみればその教授は盆栽マスターのようなものです。全く同じ盆栽は二つとないのでしょうが、しかし下手なのもあれば上物もあるわけです。教授はその自然に生えてきたもの(学生達の意見)に即対応し、盆栽師がごとく手を加え枝の伸びる方向を調整します。その後また伸びたところで再び調整。集まった生徒が何を言い出すかは想像できても実際は分からないわけです。それに即対応して教授が少し方向を調整、そしてまた生徒の何らかの意見が色々出て再び方向調整、その繰り返しでおよそクラスは進行します。これはAイコールB、それ以外は無い、という数学とは違い、AからBにしたいけどそれやっていく内にやっぱりちょっと変えた方がいいのでは?と考えてみたり色々な検証をしながら進めます。
実際そのケースに扱われた会社がどうなったかというネタ明かしと、更なる考察というのがありがちな閉め方でしたが、肝心なのは現実には何が起こったかではなく、正に盆栽師のように完璧に出来上がる形の正確な想像は不可能、ただ微調整をしながらそして盆栽の自然の力にやらせるところはやらせて上手く纏める、というところが肝心だったような気がしました。
とこんな比喩的な事言ってますが、実際のケーススタディではプリゼン、バランスシートの計算、などなど思いきり時間のかかる、悪く言えばクソ面倒な準備で追われる事が多々ありました。
どんなケースをやったかはほぼ忘れてしまってますが、印象に残ったケースの一つがケンタッキーフライドチキン日本法人とかいうのでした。アメリカ本社なのに日本でやってる連中の方が遥かに質のいいものを作っていたとか。しかし威張っているのは本社アメリカ側。様々な論議をした事は覚えていますし、当然日本人としてこれは分かる、いやこれは違う、みたいな事も思いました。
結局その授業どういう締めだったかいう事はもうすっかり忘れてしまいましたが。因みに日本ではクリスマスに若い恋人同士でケンタッキーフライドチキン、というのがありがちと聞きましたが、アメリカではそれイコール低所得者あるいはジャンクフード、というイメージでとてもロマンチック、勝負デートで使うものとは相反するものです。そういった事情をケンタッキーフライドチキン本社は少なくともかつては全く知らなかった事でしょう。
今も昔もハーバード大学のケーススタディは多くのビジネススクールで使われています。ちなみに今はオンラインで検索できかつ誰でも買えます

就職活動の始まり
授業が進む中、就職に関する活動も当然ありました。多くの人が2学期終えたのちにインターン、それを経て残りの2学期間を完了して卒業というパターンがありがち。それでこの私もそれなりに色々なイベントに参加しました。実はそういった活動は1学期に確か既にありました。その中で最も忘れられないイベントが通称GS、ゴールドマンサックスによるインターン募集イベントでした。
当時GSはまだ株式公開をしておらず(1999年公開)それはもうミステリアスなクラブのようなものでした。そして今では当たり前のメガバンク時代の前のこと、窓口銀行業務やローンを代表とするいわゆる銀行業と比べ、企業相手におよそ少数精鋭のトレーディング、株式公開、M&A等を専門とする投資銀行は別物。そしてGSはJPモルガンなどと並びそのトップクラスでした。
説明会には本社の85 Broad streetにある建物に向かいました。今の若手には分からないでしょうが、かつてのウォール街を知る者には”85 Broad”と聞いただけで即GS本拠地、と解っていたものです。現在のGS本拠地は引っ越しをしており、だからこれいい歳行ってないと分からないのです。ロビー辺りはべーつに、というデザインでしたが、案内された部屋は階が上の方で入るや否やえーっという異様な雰囲気の豪華な会議場でした。確かそこはパートナー達が集まって重要な事を取り決める会議室だったとか。株式公開前なのでそのパートナー達がいわば大株主という事でしょう。
そのような部屋に案内されたまだ若い我々は、皆口数少なくおーーッと感激していました。そして説明が始まるとJunにとってはこれまた凄い事を聞かされました。説明者がこのような事を言ってました。「わが社(GS)ではトップクラスの学生しか雇わずコロンビア、ハーバード、(あといくつか)、からMBA習得者は選んでおり…」そう、最初に応募して不合格を食らったビジネススクールの名前はそこにはありませんでした。やはり推薦状をいただいた教授の言っていたのはこういうとこに反映されたりするのか、とつくづく思わされ、またその教授への感謝の念が高まるばかりでした。
因みにそのGSですが、Junのウォール街のキャリアにおいて何度か面接に行った事もあり、またGSが私のクライアントだった事もあり、85 Broadには幾度もお邪魔しましたが、社員となる事はありませんでした。今でこそMBAの価値はどうか、と問われる時代ですが、あの頃はそういった門前払いがごく当たり前だったという事をつくづく感じましたね。
3学期開始
更に専門的なクラスを取り、相変わらずの忙しい時でした。始めは言葉に苦労した留学生もこの頃にはおよそ追いついていたのがほとんど。勿論さっさと本国に帰るを待つのみの連中はさておき、多くの留学生がネイティブ英語を話すアメリカ人に追い付き、いよいよ力勝負とでもいう感じとなり始めるころでもありました。考えてみれば直ぐ分かる事ですが、そもそも大金をはたいて海外からやってくる留学生、トップクラスの大学、大学院に入ってくる連中はかなり優秀である場合が多く、そういった点でもいざ言葉の障害がなくなると、それこそ国を代表してるかのごとくもの凄い人間が集まっている所でした。そういう点ではアメリカという国は違法移民がごった返す反面、世界中からおいしい人材を常に集めている国、という気がしました。
入学当時に専攻を決めていない生徒も結構いますが、流石にこの頃になるとそれをはっきり目標立てないわけにはいきません。それでやはりファイナンス専攻ならあの教授のクラスが企業へ紹介してもらえるしそれがいい、あるいはマーケティングは面白いけど給料が安めだ、などなど様々な会話が生徒の間でも社会へ出るべく現実味を帯びてきました。その中でこれまた忘れられない一言がありました。これは日本人学生同士での会話でしたが、「ファイナンスってさ、やっぱ(マーケティングと比べて)奇麗な仕事なんだよね」とある女性学生が発言。
小学生じゃあるまいしその場で取っ組み合いの喧嘩になったわけではありませんが、かなり波紋(反感)を呼んだ発言でした。その発言をした方は旦那がGSで働いており、それこそが天下だと思っているのが明らかでした。学校に通うのにもその旦那が会社から拝借したGSロゴのあるカバンを見せびらかすように使用。因みに彼女がビジネススクールに来たのもそういった「エリート」界隈で恥ずかしくないように学位が欲しかったとまで噂されていました。その発言を聞かされた人の中には当然ファイナンスならぬマーケティング専攻の方もいました。マーケティングの仕事ってじゃあ汚いってこと?と当然なります。それを聞かされたJunは別に怒り狂うでもありませんでしたが、そういう考え方をする人がファイナンス専攻、そしてその連中の行き先であるウォール街にはいる、という事を思い知らされました。
またそれと関連してですが「投資銀行家としてやるM&Aの仕事は世の中で最もタフな仕事だ」と宣言する人もいました。いや、世の中正に命がけで海上油田で掘削作業にあたる人や半年以上も潜水艦に閉じ込められている仕事をする人、と考えればM&Aの仕事が最もタフだと言い切る理由が分かりかねません。それは単純に法外な報酬をもらう我らが最もタフな仕事をしているからだ、という自らの勝ち組宣言のようでした。
学校が始まり単純に楽しくも忙しい最初の2学期間を終えるとこのような現実味を増した「奇麗でない」話、実際の業界の事情、雰囲気、というのを次第に感じるようになりました。それこそ出身校と稼ぐ額でまるで人間性までも判断するかのような人がいる現実、そしてそういうのがいるであろうウォール街、そこを目指している所詮田舎もんのJunは大丈夫なのか?と正直なところ少しは不安にもなりました。
そしてある意味更に不安になるかの様な事が授業中にありました。
教授がクラスでアンケートをとったのですが、何の話題だったかは覚えてませんがどういう訳か質問が「では親が大学を出ていない人はいますか?」というもの。
どういうつもりでそのような質問をしたかは全く覚えがありませんが、その時手を挙げたのがなんとJun一人だけ。戦後の貧しい昭和20年代に青春時代を送った我が両親の世代は高校へ行く事すらかなり珍しかった時代です。ところがそのJunの両親と同世代のクラスメイトの親達、大半がアメリカ人でしたが、留学生のクラスメイトの親も含め全員大卒。学歴という点で他に誰もJunのような家庭環境出身がいなかった事に驚きました。そしてふと思いました。このJunはそれこそ奇麗な仕事をするにあたらない身分とでも言いたいのかと。
超難関オプションクラス
そういったJunの心配を払拭してくれる事となったのが3学期目に取ったクラス、オプションでした。そう、これはデリバティブであるコール、プットのオプションです。そのクラスは当時多分一番の難解クラスという評判でした。そもそもそのコンセプト、それを応用したトレーディングのあれこれ、そしてその値段を決める方法と実際の数式、かなりハードルの高いクラスでした。そして教授がこれまたとんでもない天才的な方で数々の投資銀行にアドバイザーとして活躍もしていた強者。思いきり気合を入れてクラスに挑みました。
そのクラスでJunはクラスメイトと三人のグループとなり宿題などをする事となりました。毎週出されるグループ宿題を通して直ぐに明らかになったのがグループ組んだ二人。すっかりJunに宿題は頼りがちだという構図でした。やはり数式が複雑に絡むデリバティブのクラス、そういうのはとても苦手の様子。グループでの宿題とはいえ基本全てを一人でこなしてきたわけですが、それを通して頭にくるのではなくある事に気付きました。
由緒ある「奇麗な仕事」出身の人がちんぷんかんぷんでお手上げのところ、その宿題を率先してやりこなしていくJunの言う事を、それこそ盲目に信じるかのような態度をとり始めていたのです。そう、三人のグループでは絶大な力関係が出来上がっていたのです。当たり前ですが「いや、Junの親は大学出てないから此奴の言う事は信用できない」などとなるわけありませんでした。
特にウォール街の仕事は情報、数字の正確さとスピードで全てが決まるといっても過言ではありません。そんな中、デリバティブのクラスを通して、どこの馬の骨かは分からないが、あのJunは何かしら答えを出せる、という評判が立ち始めたのです。
過去の汚い奇麗は関係ない。こいつは違う、みたいなノリです。これは少し前には不安を感じていたこの世界に突入は大丈夫なのか、という不安を蹴散らかすきっかけとなりました。知識とまた難解な問題を解ける能力、これがあればそれこそ禿げだろうがデブだろうがトンでも地域出身だろうが関係ない。そう、これこそアメリカンドリームの真髄ではないか(などと勝手にかっこ良くかつ都合よく解釈するJun)。
当時作成したエクセルにプラグインするFXオプションプログラムのソースコード。こんなことをやっているのはクラスに皆無でした

宿題を盗まれるがごとくJunの成果をコピペする人は現実にいました。しかしその人達に絶対真似のできない事が、難問、あるいははっきりした答えのない事柄に何らかの結論を出す力です。この発見はつまり自分はこれを武器にすべきだ、と気付いた事であります。お陰様でちょっと自信がついたものでした。
親の教育レベルあるいは自分自身の育ち、奇麗汚いの職歴、全てが関係なくなるであろう今そこにある難しい問題を解くには肩書など関係ありません。逆に普段から肩書で偉そうに振る舞う人ほど実は本人あまり分かっていない事がありがちです。
GSロゴのカバンを見せつけているのは他にあまりないの裏返しだと。そしてそういう人はたとえば答えの出せる人には胡麻をする。あるいは俺様はいいとこ、有名大学出身なんだ、とパワハラもどきの事を同じ身分のクラスメートに示唆してみたり。こういったやり取り、経験を経て思いました。そういう連中の多くが実は自覚している「みんなには一生懸命隠してきたけど本当はよく解かっていない」というまずい事情。そしてそれがJunには手に取るように分かる、という態度を口に出さずともそのメッセージがなんとなく伝わるようにすると、じんわりと力関係が変わるかのような感覚を覚えました。
そのオプションクラスですが、最後にはクラスのトップで終了。教授からはどこに就職するにも推薦状を書いてあげるとまで言っていただけました。
ビジネススクール入学に次ぎ再び新たな切符を手にしたような気がしました。そんな事もあって教授はデリバティブを専門にする人なら絶対誰でも知っているブラックショールズによる1972年発表、ウォール街に革命的な影響を与えたオプションの論文、そのオリジナル原稿のコピーを持っていました。「死んでもなくすな」と注意しながらもそれを貸していただきました。それを丁寧にコピーしてお返ししておきました
その論文コピーの表紙。フィッシャーブラックはGSに勤めてましたが噂ではトイレに行っても手を洗わない変人、だから有名人!と近寄って握手を求めない方がいいと忠告された(あくまで噂、真っ赤なうそかもしれません)

因みにグループを組んだうちの一人、いつもJunに大変感謝しており、人も良くまた奥さんも凄く温厚で素敵な人でした。卒業後彼はトレーダーとして成功し自分の会社をも設立。それはもう随分稼いだ事でしょう。そして負け犬のごとくJunは「でもあいつは俺の宿題をコピペしてたんだ」と苦笑い。しかし正直な話今思い返しても彼の人柄のおかげで悪い気は全くしません。
ある日本人のMBA論
Junより1学期遅れてMBAプログラムに入ってきたとある日本人留学生と知り合ったのですが、その方は話して直ぐ分かるもの凄い切れ者、という感じでした。大学卒業後ベンチャー関連の仕事をしているとの事でした。カフェなどで見かけてはそれなりに話をするなど結構フレンドリーにやってきてました。
もう3学期目となっていたJunですが、そういえば最近見かけなくなったあの彼はどうしているのか?とふと思う事がありました。そして結果から言えばなんとその彼、MBAプログラムたるものこの程度でこの高価な学費、あほらしいから退学して日本に帰る、という事になっていたのです。
後にも先にも、そして卒業後30年以上ウォール街で働いてきましたが、彼のようにビジネススクールに入学して退学した、という経歴の人はどこかにいるのでしょうが、今だ出会った事がありません。しかし彼と色々と話した事もあり、切れ者の彼の言う事、本当にビジネススクールで習うことはない、と思ったのでしょう。それこそギリギリ合格したかのJunにしてみたら実にレベルの高い話しでした。
残念ながら今となってはその彼の名前すら憶えていません。彼の事だから日本に帰った後相当暴れまくったことでしょう。卒業するしか脳のないJunはひたすら勉学に励むのみでした。学費が高騰しMBAの価値が問われる今、彼のような強者を考えれば大学さえ出ておけばわざわざMBAなどとる必要はないのかも、と今は思わされています。
卒業前に
残すとこ1学期で卒業となったのですが、その前にインターンとして仕事をしました。「かつてのMBAプログラム実経験、その2」ではそのインターンでの出来事と卒業に至るまでを綴ろうと思います。GSの説明会等に参加したはいいけどそういえばあっという間にやってくる卒業後の就職先も全く未定。取敢えず入ったはいいがいよいよこれはこれで焦らなくてはいけないのかという気持ちが再び高まってきていた事も事実でした。
Jun