30年以上に渡るJunのウォール街のキャリアでニコラス程の巨漢で「俺がボスだ」という威厳を放ちまくっている人に出会った事はありませんでした。肝心の金融の大局を語るのも上手く、また細かい数字もすらすら出てくる。ロシア系血筋の大男で声も大きめでとにかく威厳がある。プリゼンも上手くまたジョークネタが尽きない。そして何より個人的には仕事にしろ人生観にしろ色々と教わる事のある方でした。その彼と出会ったのはバンクオブニューヨークでの事でした。
老舗銀行バンクオブニューヨーク
バンクオブニューヨーク(The Bank of New York、BNY)を直訳すればニューヨークの銀行、となるわけですが、アメリカ建国間もない1784年創業、アメリカでもっとも古い銀行の一つです。
2007年の合併により名前はバンクオブニューヨークメロンとなり今ではBNYメロンと呼ばれるようになりました。
創立以来ではないですが、BNYは1988年から2015年に渡り本拠地の住所がOne Wall Streetでした。金融界でこれに勝る格好いい住所は他にありません。1931年に完成した高層ビルはアールデコ調で50階ありました。クライスラーやエンパイアステイトビルディングほど有名ではありませんが、実に美しい内装が残る建物でした。2015年に不動産ディベロッパーの手に渡り、今はオフィスではなくコンドミニアムと化しました。
コンドミニアムOne Wall Street、かつてはバンクオブニューヨーク(BNY)の本拠地

BNYは創業以来、最初はローン等のいかにも銀行業から始まりました。しかし1990年代にそういった老舗銀行とは程遠いビジネスを展開する事となります。
先ず、業界初となるインターネットを通じての証券取引を成功させました。そうこうしている内に、そのテクノロジーを駆使して業界一の信託サービス銀行と化しました。2006年にはありがちな銀行業務から撤退し、信託及びアッセットマネジメント関連を主とする、随分と特化された銀行となりました。
その信託サービスですが、クライアントの有価証券の運用、また価値、取引の記録をしていると考えればいいでしょう。「そんな事が」と思われる方も多いところでしょうが、とんでもない膨大なデータを扱い、正に巨大データセンター無しでは成り立たない商売です。今やクラウドサービスが当たり前にありますが、その様な事を1990年代既に、大手銀行などを数多く顧客にそれらの証券データを管理していたわけです。
そして一般人には更に何の事や、となる"indemnified securities lending and indemnified cash collateral reinvestment"、「補償付き証券貸付および補償付き現金担保再投資」なる物も、BNYが業界大手として君臨しています。
半沢直樹で描かれたような、手に汗握る銀行マンドラマとは程遠い別世界です。一般人にはよく分からない大量のデータを、何やら黙々と記録し続けているわけです。JPモルガンやゴールドマンと言う様なブランド名ではありませんが、BNYなしではこの業界は成り立ちません。
9-11とバンクオブニューヨーク
ビジネススクール以来の友人がそこのエグゼクティブのカートと結婚していました。
カートですが、社のテクノロジー部門のヘッドを務めていました。いわゆるCTO、Chief Technology Officer、あるいはCIO、Chief Information Officerと言うやつです。
このカート率いるBNYのテクノロジー部門はとんでもない目に一度会いました。9-11で破壊されたワールドトレードセンターですが、なんとそこにBNYのデータセンターの一部があったのです。BNYのデータセンターが使えないとなると、基本アメリカの株や債券の取引がされたところで、その記録管理ができない、というような状況となります。つまりその破壊されたデータセンターを抜きに信託システムを何とかするのは正にウォール街、しいて言えばアメリカの金融取引の動脈バイパス手術をするかの如くでした。カートは一か月程家に帰る事もせず、オフィスに留まり血眼に働き何とかしたそうです。
9-11後、株の取引はそういった事情もあり9月17日に再開となりました。その時はまだ崩れ瓦礫と化したワールドトレードセンターが燃えている中での事でした。因みに、西暦二千年になったらシステムがおかしくなるのでは、という西暦二千年問題、というのがありました。その対策としてどのシステムがどうおかしくなったらどう対処するか、というマニュアル作りが何年もかけてなされていました。そしてカート曰く、実際西暦二千年になったところで何も問題がなかったとのこと。しかし全く予想もしなかった9-11というテロ行為によるデータセンター破壊。緊急のシステム立ち上げに、なんとその西暦二千年問題対策マニュアルが大変役に立ったとの事でした。
カートの語ってくれた話によれば、確か9-11後、新たに二つデータセンターを作ったとの事。その一つはブルックリンのとある駅の終点に建設。そしてもう一つは極秘の場所にこっそり建設したとのこと。外見はとてもそのようなハイテクデータセンターとは全く思えないもの。しかし厳重に囲まれた軍隊レベルの警備の中に入ると、最新のサーバーだらけだとか。
アンチアメリカのテロ行為によって破壊され、ウォール街の心臓部を脅かした一大事件。そのテロ対策という事で先ず場所すら極秘、万が一の時は機関銃で対応、と言う様な事なのでしょう。
およそウォール街の会社でテクノロジー部門と言えば、悪く言えば奴隷のように扱われがちですが、しかしBNYに至っては、それをもってして開拓した最新の信託サービスを提供すると言うかなり重要な役職でありました。また人知れずウォール街の心臓部を司るといっても過言ではない役割でもあります。
バンクオブニューヨーク入社
ある時そのクラスメイトとカートと話していたら、とあるプロジェクトを立ち上げるのでうちに来ないかと誘われてBNYに入社しました。そのプロジェクトとはバーゼル自己資本規制に関して業界でもいち早く手の込んだシステムを作りそこで優位に立とう、というものでした。前途の"indemnified securities lending and indemnified cash collateral reinvestment"、「補償付き証券貸付および補償付き現金担保再投資」に関連するVaRの計算をしてバーゼル自己資本計算をするというものでした(VaRについてはエピソード13「エクセル:ウォール街を支える危険な必要悪」を参照)。
カートの紹介でBNYの本拠地One Wall Streetのビルディングへ面接に向かいました。そこで何人かのお偉いさん達と面接しました。そのとき最も貫禄があり「俺がボスだ」感をだしまくっていたのがニコラスでした。因みにその時ふと思ったのがニコラスはあの有名セレブトランプに凄く似ている、と言う事でした。当時のトランプは政界に出るとは程遠くセレブビジネスマンでした。しかし彼も大男かつ「俺がボスだ」感を出しまくっている大物。話し方と言い、何かとそういったトランプを思わせる雰囲気バリバリの巨漢でした。
その「俺がボスだ」感ですが、入社してから知った事ですが彼はニューハンプシャー州に夏の間だけ過ごす豪邸を所有していました。奥さんと子供三人は夏の間そこで過ごし、彼は金曜午後早めに仕事を片付け、飛行機でそちらに飛び週末を過ごす、という暮らしぶりでした。
その豪邸はサザビーを通して購入したもの。サザビーといえば絵画のオークションを思い出しますが、実は不動産も扱っています。勿論その辺の安物ではなく、ブランドに恥じないものしか扱っていません。そのような屋敷で夏の間週末だけ過ごすと言うニコラスは、そういった点でもウォール街エグゼクティブ感バリバリでした。そういえばカートも当然ニューヨーク州北部アドランダックという巨大な州立公園内に別荘を持っていました。
これはカートの湖畔にある別荘、何度か泊まらせていただきました

ニコラスとの面接に話を戻しますが、彼は意外とビジネスの細かい事をあれこれ聞くような事はしませんでした。色々と雑談をしているかのようでもありました。しかしある瞬間、急に真剣な「クワッ」という眼差しで見つめられ「あんたはプロジェクトをやるにおいて整理整頓がつく方か?」と聞かれました。「あ、いやそれはそうだと思います」と言うようなほんの少しためらいの気が感じられるしかし一応大丈夫です、という返事をするのが精一杯でした。あのような視線(ゴルゴのスナイパーモードを想像してください)を向けられると人間馬鹿正直になるものだ、と感じました。「オーケー」と言うような事を言われ再び雑談再開。
男女の関係に関して「あなたは私の事を本当に愛してるの?」と目をしっかり見つめられながら聞かれた時に、少しでもためらってしまったり視線がちょっとずれたりとか、そういう言葉では表せられない本能的な反応が実は本音を一番語る、と言う事はあると思います。ニコラスのあのような質問内容そのものは何でもないような事、しかし彼はそれを答えるにあたり、何らかの躊躇なりがあるかどうかをテストしていたのでしょう。
結局面接は上手くいき、一か月後には仕事を始めていました。
エグゼクティブニコラスの命令
仕事を始めた初日、ニコラスに呼ばれてこれから昼飯を食べに行くと言われましたが、どこでかと思えば、エグゼクティブダイニングルームと言う所でした。それは大事な顧客をもてなしたりあるいは会社の重役が自由に使える豪華な食堂で、専用のシェフとスタッフがいました。そのような場所に出入りした事はそれまで無く、ちょっと感激でした。何を食べたのかはさっぱり覚えていませんが、兎に角そのような場所に来てウォール街のお偉いさんと自己資本規制対策云々を語り合ったというので頭が一杯でした。
エピソード #6「かつてのMBAプログラム実経験その1」でビジネススクール学生時代にゴールドマンサックス(GS)パートナー会議室見学の経験を綴りましたが、あの時はただの見学でした。しかしBNYの社員として、普通は入れない場所でランチを食べている自分に少し感激していました。そういう時はそれをよーく味わって楽しむべきだとウォール街では言われるものです。何故なら必ずそれは終わる、下手すると最悪の落ちもありうるから、と言う事です。
その食事中に彼は右手でテーブルをどんと叩き、続いて左手でテーブルを叩きながらここ(右)からここ(左)へ行くのに何が何でもやるんだ、と言う事を語りました。そして「失敗は絶対に許されない」、とあの面接の時の恐ろしいかの如くの視線にまた変わりJunをしっかり見つめて真剣に語りました。
それまではエグゼクティブ気分になりすまして喜んでいたのに、一気にサーッと寒気がするような思いをしました。そりゃただでこんな立派なエグゼクティブダイニングルーム来れるわけないか、と自覚。先ほどまで味わっていた快感が薄れていくのを感じました。
昼食が終わりデスクに戻ると、早速最初の仕事が彼から直々に来ました。フェデラルリザーブが発表した新しいバーゼル自己資本規制案、全く新しいキャピタル計算をどうするかのプリゼンを二週間後にしろ、というものでした。それは何百ページにもあるルールブックの草案であり、とんでもなく読み難いものでした。しかし仕事始め早々の依頼、しかも先ほど失敗は絶対許されないと、良い気分でランチを食べながら言われたばかり。なんとしてでもいい結果を先ずは出さないわけにはいきません。
その思いきり読みにくい自己資本規制案の一部(https://www.federalreserve.gov/boarddocs/meetings/2003/20030711/attachment.pdf)

その新しいルール草案ですが、今までの自己資本規制から大きく変わってしまうものでした。実はニコラス率いる部でも、それを纏めて分かり易く解説をした人が誰もいなかったのです。それで腕試しと言う事もあり、入社ほやほやのJunに回って来てしまったのです。
宿題に取り組む
新しい自己資本規制ルール草案を発表したのはフェデラルリザーブだったのですが、そこから派遣されてBNY本拠地に席を構える人達が数人いました。二週間後のプリゼンにはその人達も来るとのこと。草案出版側から派遣の連中が要はJunによる解釈を吟味に来るとでもいうことか?と何やら妙な気がしました。しかしそれよりも「失敗は絶対に許されない」と釘を刺したニコラスとその他お偉いさんどっさりを前にプリゼンとは。それを思うだけでも焦る気がしました。
数百ページにおよぶルールブックが兎に角読みにくい代物だったので、まずは何ページから何ページがどういうチャプターでどういう説明か、と全体のあらすじを探る事から開始。そして少しずつ全体像が見えてきました。
草案には統計的なリスク管理の理念が新たな自己資本規制の骨格となると解説してありました

全体像が見えてきたら次はプリゼンをどう作り上げて話を纏めるかを考えなければなりません。また草案にはいくつも数字の例があり、それがBNYではどういう事になるかも計算し直す必要がありました。スクショにもありますが、標準分布関数などを使うなどエクセルに付属する関数を使いこなさずでは出来る事ではありませんでした。
そんな事もあり内容を理解するのに一苦労、そして次は誰も教えてくれない数式を草案を見ながらエクセルで作り直し自社に特化した数字を放り込んで自己資本がどれほど変わるかの予想などを立てる。とこのようなところでプリゼンはよさそうだ、と言う事になりました。
参考までにというようなノリで公開されていた草案に載っていた数字、こういうのもBNYに特化した形で計算しなおし検証

取り敢えず内容は理解できたので、記載されているテーブルの数字をエクセル上で再構築する作業に入りました。しかし何かしら計算がおかしい事に気付くと。あくまで例えと言う事で言うなら、上記のテーブル、一列目(0.05 percent)には0.50,0.92,1.83,2.74と数字が続いていますが、エクセルで作り直したら何故か最初の二つは同じ、しかし次の二つが違う。そしてそれは一列目のみならず全ての列において最初の二つは同じ結果。しかし残りの二つが違う。
あれこれしている内に確信しました。これはフェデラルリザーブ出版の例が間違っていると。しょうがないのでプリゼンはその間違った数字の訂正も含める事にしました。
宿題プリゼン
そしてあっという間に二週間が過ぎました。まだBNY入社二週間、そしていきなりとんでもないプリゼンをやる羽目になってしまいました。会場にはニコラスは勿論、BNYに席を置くフェデラルリザーブの連中数人、またその新しいルールとは一体どういうものなのかについて興味のある人まで集まり、狭い会場は満席でした。
後で分かった事なのですが、実際に新しい自己資本ルール草案をしっかり読んだ事のある人はそこにはJun以外いない事が明らかでした。取り敢えず読み始めたはいいけど、まず単純に読み難く複雑な数式も出てきて、結局どう言う事なのか分からず仕舞いと言う事だったようです。
そもそもどういう方式で新たな銀行の信用リスクを統計的に計算するか、と言う事が新しいルールの根本でありその解説、更に実際の数字でもって説明をしました。会場にいる人々が静かに頷きながら聞いているのが伝わってきました。
そしてそのプリゼンで最も肝心な結局自己資本の数字はどういうことになるのか、というところで草案に例として示されていた数字の表に言及しました。「これが草案にある新しい自己資本の数字の例ですが、因みにそれ一部間違っています」と発表。会場はそれで随分と湧きました。数字の表だけを見ると分かり難いのですが、グラフにするとその間違いが可視化され疑いなきものとなっていたのです。その時フェデラルリザーブから来ていた人達、は彼らが直接起こしたミスではありませんでしたがやはり気まずそうな顔で苦笑いをしていました。
一時間以上に渡るプリゼンでしたがあっという間に終わり最後にニコラスは非常に満足し笑顔で”this is a dynamite presentation”(このプリゼンは爆発的に素晴らしい)と言っていました。
その後更に同様のプリゼンを頼まれる事になりました。大げさに言えば胃の痛くなる思いをしながらの二週間でしたがほっとしました。
「補償付き証券貸付および補償付き現金担保再投資」自己資本計算プロジェクト開始
もうこの見出しだけでなんのこっちゃでしょうが、頼まれたプリゼンは突然の依頼、元々はこのプロジェクトをする為に雇われたものでした。新たにVaRを計算してどれほど自己資本が縮小されるかの資料を纏め、トレーダー連中との会議をする事に。
プロジェクトを始めるにあたり、先ず顔合わせとなる最初の会議をトレーダー達と開く事にしてアポをとりました。そしてその電話会議ですが、Junとそのプロジェクトチームの部下達は勢ぞろい、しかし時間になってもトレーダー連中がまだ誰もいない。まさか市場で何かあったのかとかも思われましたが、そんなニュースがあるでもない。待てども待てども誰も参加しない。しばらく待てども誰も参加せずなくやむなく終了する羽目となりました。
トレーダー達は参加皆無、しかも何の連絡もなかった、という報告を受けたニコラスは激怒。そもそもこのプロジェクトを成功させた暁には単純に言えばトレードできる金額が莫大に増え、つまりは会社の売り上げもかなり増えるという見通しのプロジェクト。その恩恵を最も受ける連中でもあるトレーダー達が不参加とは何事かと彼は怒り狂い、そちら側の部署のお偉いさんに怒鳴りこんだとのこと。そもそもお前らの取引上限を上げる為のプロジェクトと言っても過言ではないのにその会議に不参加とはは何事か、と。
がどうも単純に普段から忙しいトレーダー達には、どういう意義の会議か全く分かっていなくそれで基本無視だったようでした。
ニコラスから再び会議をするように言われました。しかも今度は絶対来る筈だと。実際そうでした。しかもアメリカでは珍しい時間に一分たりとも遅れること無く。簡単に言えばウォール街しかもトレーダーというのは最も目先の儲けに敏感とも言えます(そしてサーッと引くのも一番早い)。なんせスピード、リスクとそれに対する報酬の割合等、瞬時に考えるのが日常です。そして数分前に考えていた事の真逆を真っすぐ進む決断をこれまた瞬時にする能力も必要です。矛盾だらけのようですが、かつて為替トレーディング部のトップがそう言う事を仰っていました。
それはともかく、鶴というよりはニコラスという虎の一声であっという間に絶大な協力体制が出来上がりました。勿論諄いようですがこれをやれば儲かるという理解も得られたからですが。お陰でその後は基本スムーズにプロジェクトを進める事ができました。
アメリカという国は日本人感覚では時間にルーズ、統率が取れない、みな勝手、というように思われがちですが、実際一緒に仕事をすると正にその通りです。勿論ウォール街はNYCにあるお陰で外国生まれ育ちの人も沢山います。ただそういった人達も日本人と比べたらアメリカ人と同じような時間感覚と言えます。ただし「虎の一言」(そういえば「トラ」の一言と今言えばトランプの一言と思われるんでしょう)がかかるとそれはもう軍隊か、と思われるような何もかも正確にぴったりと決まりまくる、というような事はこれまたよくあります。ニコラスのたまに見せるその一言二言、そしてその絶大な影響力というのをじっくりと味あわせてもらいました。
クラウドコンピューティングの駆け出し
巷ではアマゾンのAWSが業界初のクラウドコンピューティングとは言われますが、それは2006年の事でした。しかし実際にはそれ以前にASP(Application Service Provider)という名の、今でいうクラウドコンピューティングのSaaSがありました。プロジェクトで肝心なVaRの計算ですが、それを自社で作るという手もあったわけですが、既にそのサービスをASPで安く使えるとあらばそれも検討すべきだとなりました。
RFPという”Request for Proposal”をいくつかのASP会社に出してどのようにVaRの計算をするか、それに費やす時間、セキュリティー対策、そして肝心なコスト、などを提出してもらいました。RFPのプロセスは実におもしろいものでとんでもない的外れな出鱈目プロポーザルを平気で出してくる会社もあれば、信じられないほど安く素晴らしい内容の時もあります。
プロポーザルを提出した会社の一つがRiskMetrics(リスクメトリックス)。この会社は元々JPモルガンの一部であったのが独立したものでした。その社員はVaRの開発に大きく貢献した事でも知られており、そんな事もあって料金はべらぼうに高いものでした。
それに対し聞いたこともない会社、DST Systemsというカンサス州にデータセンターを設けている会社もRFPにこたえてきました。そこにプリゼンをさせてみたら実に面白いものでして、何があってもデータセンターは動き続けるというところが先ず凄いものでした。停電、テロ、竜巻、対戦車防御杭、はたまた万が一トンネルを掘られてもそれに対する地下防御壁、それこそ核戦争になっても毎日VaRの計算はできる、というノリ。プロポーザル提出してきた会社の中でこれほど究極のデータ管理をしている所はなく、また肝心のVaR計算の値段も手頃、なのでその会社に決めました。
契約成立後は接待でとんでもないお洒落な店に、ニコラスその他も迎えご馳走になりました。今でも印象に残っているのが、ラベルは忘れましたが兎に角、実に美味なワインのボトルを開けた事でした。そりゃあこちらが大金毎月払う事になるわけだし、それはいいもの用意したのでしょう。しかし大変なのはそれから実際にシステムを構築する大きな仕事が残っている事でした。
ニコラスの感
試行錯誤を繰り返していよいよ実際のトレードのデータをもとにVaRの計算を始めました。すると当時のマーケットの状況では米国債が担保の場合99%の確率で最悪1%ほどの価値を五日間のうちに失う、という結果でした。それとは別に住宅ローン担保証券(Mortgage-Backed Securities, MBS)が担保の場合は最悪3から5%程の価値を失う、というものでした。
その結果報告を受けニコラスは米国債のはいいけどMBSの方は絶対おかしい、もう一度やり直せと命令。何をもってして「絶対おかしい」と思ったのかは分かりませんでしたが、取り敢えずMBSでのVaR計算について細かく調べる事になりました。
しかしあれよこれよと調べていたら、重要なデータがMBSでのVaRの計算に使われていない事が判明しました。それはMBSに特有である元本償還率、住宅ローンに特有な繰り上げ返済によって債券の満期が縮小する事です。満期が短いほど市場での利子の変動に対する債券の値段の変化も小さくなります。そしてそれは担保としてのリスク低下、つまりはVaRも小さくなる筈と言う事になります。しかし肝心な元本償還率が計算に使われていなかった事実が判明。発行当初30年満期というMBSも現実には例えば15年でおしまい、という事は多々あります。しかしVaRの計算はリスクが高くなる30年のまましていたという事です。
そしてなんとその何故か使われていなかったデータをしっかり顧慮して計算し直したら、およそVaRが2%以下に落ち着きました。改まった計算結果をニコラスに報告すると、顔をにっこりさせ「ほら見た事か、俺様の言った通りだった。今度の計算結果は間違いなさそうだ」というような事を言いシステムのゴーサインを即頂きました。
ファイナンシャルエンジニアというような役柄をした事もないニコラスでしたが、何故か米国債及びMBSのリスクについては普段の市場経験からおよそのレベルが体感されていた様子。実際の数字を頭に描いていた、というよりは米国債のVaRが1%程でMBSのVaRがその何倍もある、という点がもの凄く引っかかったようでした。
こういった物事の関連性、相対的な値段のレベル、そういう事への経験則から来る感覚というのはやはり優秀なベテランならでは。最初MBSのVaRの結果が出そろった時Junは基本鵜呑みにしていただけで、その数字がこれは何かおかしい、と言う事すら気付きませんでした。今から思えば恥ずかしくも思える話ですが、ニコラスの一声で結局何がどういう理由でそういう間違った数字になっていたかいい勉強になり、何より正確なリスク計算をするという最も肝心な結果を出す事ができました。そして挙句の果てには自己資本の計算に使えるようにもなりトレーダー達も大喜びとなりました。
クリパ
日本のサラリーマンと言えば、仕事の後に上司につき合わされくだらない蘊蓄を聞かされる飲み会に強制参加とかが頻繁にありそうなイメージです。日本で社会人をした事が無いので実情は知りませんが。それに対し取り敢えずウォール街というよりアメリカ全体では営業の一環としての飲み会(接待)はありますが、同じ社員の身内だけでアフターファイブというような事は年に2-3回あるかないかぐらいです。
ありがちなのが昇進などの発表があった時のお祝い集い、何らかのプロジェクト立ち上げあるいはその成功祝い、あとはクリパぐらいでしょうか。数人仲のいい連中が集まって飲みに行くはどこでもあり得ますが、今考えてみても会社のグループでのイベントとしては本当に回数が少ないです。
ニコラスはクリパを毎年自宅で開くいたようで、その年ももれなく自宅でのクリパとなりました。彼の奥さんとお手伝いが数人で準備と当日の仕切りをしていました。奥さんはニコラスと比べたら小柄でしたが、凄く優しい話し方の美人。あー、エグゼクティブの奥さんはこんな感じか、とつくづく思いました。
子供達も息子一人と娘二人と計三人いました。その娘さんがクリパの途中でピアノを弾き始めました。そう、豪華なグランドピアノがある家だったのです。社員をかき集めてパーティーができるほどの広いマンハッタンにある高級自宅、グランドピアノを弾きこなすお利口ちゃんの娘さん、そしてそのパーティーを仕切る美人の奥さん、ほんとウォール街のエグゼクティブライフを見せつけられました。
そのパーティー費用はニコラス自腹。超おいしいバーガンディーも沢山盛られました。
BNYを後に
クリパも終わり年明け早々プロジェクトは完成し、何より結果的に短期利子を稼ぐレポのトレードの規制額が大きく増えました。つまり銀行の売り上げ増加に直接貢献できた事は、私自身にしても大変喜ばしい事でした。しかしその後最も肝心なところで大問題が起こってしまいます。
そう、ウォール街では確固たる実績にはそれ相当の報酬がつかなければなりません。簡単に言えばその事で揉めてその後転職を決意したのでした。
VaRのプロジェクトは大成功でしたが、それ以外のところでは色々と問題があり、日曜の夜、つまり明日の朝にはまた会社に行かなければならない、という時に、いつも胃が痛くなる様な思いをするように知らない間になっていました。今から思えばくだらないところで悩んでいたと思うのですが、当時の自分にはそういった器量がなかったとしか言いようがありません。仕事探しを始めたらあっという間に行先が決まり、そして退職願を出す成り行きとなりました。
ただあのニコラス、退職願なるものを受け取ったらどのような反応をするのか、正直心配になってきました。まさか発狂するかの如くそれを破り千切って怒鳴りつけるか?日曜の夜の胃が痛い思いどころではないこれはまた変に心配になってしまいました。しかし一度決めたこと、それなりに勇気を絞るかの如く退職願を提出。しかし拍子抜けとはこの事で彼は随分と冷静な反応でした。
去る者は追わず、という感じであーそれは残念だ、ぐらいの反応でした。
しかしその時全く思いもよらない事を彼はJunに語りかけ始めました。彼は冷静にJunの決断を受け止めこのような事を言い始めたのです。「まあしょうがない、仕事は仕事だ。しかし一番大事なのは家族だ。それを忘れちゃあいかんよ。」
何を言い出すかと思いきやそれ。「JunはあのVaRプロジェクト、今度はデータのサンプルの仕方をもうちょっと工夫したらもっといいだろうから、次行くところでそれやってみたらいい。」などというような、いかにも業界助言ではなく仕事は実はどうでもいい、家族を大事にしろ、とウォール街と全く関係ないお言葉。本当にびっくりしました。
まさか発狂レベルの怒りをぶつけられるか、等と心配していた自分が恥ずかしくなるぐらいでした。あのような巨漢のウォール街エグゼクティブ、社内外のいろんな連中と様々なバトルを繰り広げた事もある強者、そんな人から出てくる言葉とはおよそ思えませんでした。
しかしそのギャップもあり、実に深く突き刺さる言葉でした。因みに為替トレーディング部にいた時の上司も同じ事を口癖のように言っていました。その時は単にその上司がそういう考えの人か、ぐらいにしか思っていませんでしたが、しかし全く同じ事を言われ、アメリカってそういうとこなのか?と深く考えるようになりました。
もう一つ彼は付け足したのですが「Junさんところであんた人に説明するのがもの凄く上手い。教授なりなにかしら教える立場の仕事をするのが絶対いい。」あのプリゼンとその後いくつか、そこまで気に入っていてくれたのか、と改めて何か嬉しく思いました。
数日後ありがちではありますが、一応グループでの送別会まで盛大にやっていただきました。
BNY同窓会とネットワーク
今まで転職を何度もしてきましたが、その数ある会社で同窓会を開いてきたのは二つのみ。BNYはほぼ毎年のように同窓会が開かれ、その仲間とはずっと繋がっていました。そしてBNYの合併どさくさなどがあり、ニコラスを筆頭に多くの人が別の会社へごっそりと転職しました。しかしそのような事があっても、元BNYという同窓会は続きました。
BNYを後にして随分と月日がたったある時その同窓会ネットワークからとんでもないニュースを聞くこととなりました。なんとニコラスの高校生の息子が事故死したと。
事故死した息子さんですが、ブルックリンにある有名な(かつ高学費、年間一千万円程)私立高校に通っていました。クライミングやスキーでかなり才能があったようで、クライミング関連の雑誌にも載った事があったとか。そのような若きスポーツマンだったのですが突然の死。息子に先に行かれる親ほど辛いものは無いでしょう。
悲報を聞いたはいいけれど、Junとしてはどうすることもできません。ただ同じ親として想像せざるをえませんでした。いや、そんなことはありえない。しかしここで身近に知っている人にこのようなとんでもないことが起きてしまったと。
ニコラスとの再会
そういったこととは全く関係ないところで翌年Junは仕事探しをしていました。そしてニコラス率いる元BNY同僚が集まる会社に縁あって面接となりました。
面接というより先ずは電話インタビューでした。取り敢えず話は上手くいき、後日本社での面接となりました。これも全然上手くいき雑談モードとなりました。そのとき話題に出た事の一つがニコラスでした。かれはその会社のトップから数えて一番が社長とすれば二番目か三番目ぐらいの地位にいました。「いやー彼とは一年ほど仕事しましたが色々とありました」というような事を確か言ったのですが、面接をしていたマネージャーが「そういえば彼今そこにいるかもしれないから秘書の誰これに聞いてみたら?」と言われ面接は終了。
言われるままニコラスの秘書に恐る恐る話しかけてみたら「あー、あんたは運がいい。ちょうどニコラスあとちょっとで30分程時間がある、そこで待っていて」と言われました。
待つこと数十分、秘書がやってきてニコラスのオフィスへと案内してくれました。色々と噂には常に聞いていましたが実際に合うのは10年以上ぶりでした。まずは熱い握手、お互い凄く嬉しく思っているのが深く感じられました。
しかしです、一瞬のにこやかな顔がすぐ曇ったのが分かりました。一言めは久しぶりに会えて実に嬉しいと。しかし二言目には息子を亡くした悲しみに打ちのめされている自分を語り始めました。息子の死後一年ちょっと経っていたのですが、まだまだ重く引きずっているのがはっきりと分かりました。あの巨漢、またかつて仕事を一緒にしていた時は、場合によっては怒り狂い、阿保な奴には怒鳴るなど凄い勢いのあるエグゼクティブだったのに、そして今は更にのし上がったエグゼクティブ。しかしJunの目にする彼は、ただただ打ちのめされて悲しみに埋もれる父親以外の何物でもありませんでした。
そんな感じでしんみりと話が続きました。Junが面接に来てその会社で働かせていただきたいのです、というような個人的な事情は全くどうでもいいかのように思えてきました。
すると突然ドアをノックする音。秘書が次のミーティングの人が待っているとのこと。するとニコラスがポロッと「以前は自分でやる事を決められたけれど、今の自分は秘書なりなんなりが全て何をするのか決めて、俺はただそのスケジュールに言われた通りに顔を出すだけになってしまった。しかし今日突然サプライズで久しぶりにJunに合えたのは実によかった。」と言いました。再び深く握手をしてその場を去りました。
今でもあの時の様子を思い出しながら徒然と書いていると泣けてくる気がします。ウォール街で上り詰めるを目指す人は五万といます(多分もっと)。そして彼は絵に描いた様なエグゼクティブライフを実現していました。美人の奥さん、お利口ちゃんの子供達、週末は飛行機で豪邸へ、などなど。彼の事を知らない人からしたら羨ましい限りの何物でもありません。
しかし現実といえば、多少自分の意志は通るとしてもトップクラス、しかも株式会社となれば自分の意志とは裏腹に遂行せねばならぬ責任というものが山積みで、それは秘書などを通して次から次へとぶち込まれ結局自分はその場限りで消化するしかないと。新卒で会社に入った時には上司にこき使われ自分というのが無い。逆に上り詰めた挙句には株式会社という無機質な存在を支持する為にそのシステムの言うなりに動くしかない。結局「自分」というものがない巨大な会社、またはどう足掻いてもウォール街というルールで雁字搦めになっている中の一齣以外何物でもないということなのでしょうか。
高層ビルの山々、この中で雁字搦めになり働く我々(Jun撮影)

そして「仕事はさておき最も大事なのは家族だ」とJunに別れの言葉を言っていただいたニコラスが、息子をなくすというとんでもない悲劇にあってしまったという残酷な事実。
彼の家で開催されたクリパで出会った少年、彼がもうこの世から去ってしまった。しょうもないことをふと思ってしまったのですが、もしも彼が運命の取引をできる立場にあったとしたら、息子を助けられるなら会社を首になるなど何でもいいと躊躇する事なくそれを選んだでしょう。勿論そんな運命の取引などできません。現実は息子を亡くし、彼はウォール街で更に躍進したのでした。
でもそんなキャリア達成、何の幸せの足しにもならない事が明らかでした。
ニコラスの教え
彼は仕事の上で色々と教えていただきました。それは言うまでもありません。そして家族が最も大事だ、と言う事、言われた当時も印象に残りましたが、その意味が更に深まる事となりました。いつ突然何が起こるか分からない。9/11で朝いつものようにお別れをしてそのままテロに巻き込まれて散っていった人もいたわけです。彼のお陰もあり、毎日毎日家族が元気でいてまた夜遅くでも家に帰って来るとほっとします。真夜中に帰ってきて何やらごそごそと音を立てられると起きてしまう事があります。かつては腹が立つ思いもしましたが今はそう思わなくさえなりました。確かに煩くて起きてしまったけれど音を出しているのは、家族が生きて帰ってきたという知らせだ。これは幸せの音だと。
去年の冬再びBNY同窓会が開かれました。その時はニコラスも参加しました。現れた彼は何と杖を突いていました。つい先日リタイアして老後生活を満喫とのこと。そして前回出会った時とは違い亡くした息子さんの事を話題には一切しませんでした。内心思ったのがやっと少しは立ち直れたのか、と言う事でした。
今でも一応仕事をしていますが、しかし何が一番大事なのか、と言う事を思う事が実に増えました。ウォール街の巨漢ニコラスでしたが、しかし彼が教えてくれた最も重要な教訓はファイナンシャルの何とかかんとか計算ではなく、家族の大事さと尊さでした。
そういえば辞職した時彼に言われたもう一つのこと、何か人に教える仕事をしてはどうか、というのですが、BNYの仕事の後会社でセミナーを開くなり、そういうところでは彼の予言通りとなりました。そして更に歳を食った今、やはりこれからは次の世代の人達を育てる事が最も重要な事か、と思うようにもなりました。家族が最も大事は当然ですが、次世代を育てるもでしょう。もういい加減歳を食ったJun、そちらの方もこの世に貢献できるよう頑張りたいところであります。
Jun